高田郁文化財団

この一冊この一冊

孤独とむきあう、自分とむきあう

KŌHEI

独り居の日記

『孤立』は寂しいが『孤独』でいることは決して悪いことではない。

「1人で遊ぶこと」や「孤独でいること」が寂しくないか?と言ってくる人がよくいるが、1人の時間を過ごすことの”ありがたみ”や奥深さを知らないことは、人としての浅さを露呈することだと個人的には思っている。が、特にそれに言及するつもりはない。

私は20代の頃にこの本と出会い、

『孤独』に生きることの楽しさ、そして厳しさ。その両面をこの本から学んだ。

「女性自伝文学の分水嶺」とされる傑作と名高い本作。

自著の書評への失望、長年愛した人との終り、父親の死・・・

重なりに重なった不幸により精神を病んでしまい、世間と離れひたすら自分の内部をみつめるため、片田舎に購入した家での生活を始めるが、その際さらなる不幸が彼女を襲う。後に書いた自著の中で「同性愛」を発表したのだが、職を追われ、発売中止にまで追い込まれたのだ。

いまでこそ、多様化の時代になりまだまだこれからだが「同性愛」にも寛容な世の中に少しはなってきていると私は思っている。

結婚もしない、異性と付き合わない。そんなスタイルもいまではかなり聞くようになった。

だが1960年代には彼女のライフスタイルも含めて、かなり異を唱えられただろう。

世間に認められず、長い年月をかけて傑作と言われるようになったが成功者とは到底言えないような人生を送っていたようだ。


この本は、物語のように感じられるが彼女の日記なのだ。精神的なところからくる彼女の「怒り」も多々描かれており、人によっては読んでいて厳しいと思うこともあるかと思う。

だが、季節の移ろう様・自然の美への描写のなんと静かで美しい文章なこと。

文章だけで、纏わりつく独特な季節の風を肌で感じられる。

他人の日記を読んでそんなことあるだろうか。いや私はそうない。

だからこそ読んでいてなんと心地よいことだろうと思ったのだ。

そんな心地よさの中にも、芯があり刺さる言葉というのがある。

孤独に生きていく上で特に印象に残った『言葉』だ。

『私には考える時間がある。それこそ大きな、いや最大のぜいたくというものだ。

私には存在する時間がある。だから私には巨大な責任がある。

私に残された生が何年であろうと、時間を上手に使い、力のかぎりをつくして生きることだ。これが私を不安にさせはしない。

不安は、私が知りもせず知るすべもない多くの人々の生活と、アンテナかなにかで

つながっているという自分の生活の感覚を失ったとき起こるのだ。

それを知らせる信号は、常時行きかっている。』

なんと学ぶことの多い本なのだろうか。

SNSの発達により、多くの情報が飛び交っている。飛び交いすぎている。

そんな時代だからこそ多くのことを学び、他人や情報に振り回されない自分でいることが大切なのだと私は思う。

この言葉をみたとき私は、自分に合った人とのほどよい距離感の中で

自分自身と向き合うことの覚悟をちゃんと身に付けてこの先も孤独に生きていきたい。


そう、サートンと同じことを思った。

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