風を感じて
Y.T.
金木犀の香りを運ぶやわらかな風、
黄金色の稲穂を波打たせる風、
ポートタワーが見える波止場をわたる風、
どの風もぼくは好きだ。 雲・空・景色と一体となって心の中に残っている。
10代だった頃、深夜放送のラジオから、はっぴいえんどの「風をあつめて」が流れていた。
「風をあつめて」というフレーズが、特に気に入った。風をあつめるってどんな感覚なのかな
と思いをめぐらせた。散歩する路地裏から見上げる空は、どこまでも蒼く澄み切っている。
この曲が、作詞家松本隆との出会いだった。
松本隆は、もともとドラマーだったが、細野晴臣の勧めで作詞を始めた。
松本隆の詞は、都会的でさらっとしている。かといって軽くはなく、思念の深さを感じる。
時を経ても、その輝きを失わない。難解な言葉を使わないので、聴き手の心にすうっと入り込む。
松本隆は、悲しいとか不幸という言葉を使わない。何故か。
悲しいを口に出したり、紙の上で、「悲しい」と文字で書くと意味を限定することになるからだ。
悲しい以外の部分を切り捨ててしまう。「悲しい」のまわりにはもっと他の感情があるはずなのに、
ことばにしてしまうと「悲しい」だけが残る。言語化することによって、自らその言葉の呪縛に
とらわれてしまう。
松田聖子の「風立ちぬ」(曲/大滝詠一、詞/松本隆)は、別れの曲であるが、暗さは感じない。
立ち直って未来に向けて旅立っていく女性を描いている。
「風立ちぬ」とタイトルを聞いて、堀辰雄を思い浮かぶ人はいるかもしれない。
もともとは、ヴァレリーの詩の一節である。堀辰雄も小説の中に引用している。
松本隆は、中学生のころから、ランボーやボードレールなどのフランス文学を読み、ストラビンスキー、
ドビュッシーを聴いていた。「風立ちぬ」は、ヴァレリーの影響かもしれない。
松本隆は、作詞家としてデビューしてからも、万葉集を読み、歌舞伎・能・オペラ・バレエを観劇
したりした。このようなバックボーンがあるから松本隆が紡ぐ言葉には、奥深さ、味わいが感じられる。
また、作詞家の域を超えて、古事記の訳やシューベルトの歌曲の日本語化も手掛けている。
松本隆は、その時代の人たちが見失っているもの、足りないものを書きたいと思っている。
今の時代、都会に吹く風の存在すら感じない、わからない人は少なくない。
水や光は目に見えるが、風は目に見えない。本当に大切なものは目に見えない。
「風を感じる」感性のアンテナを、ぼくは持ち続けていたい。 いつまでも。
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孤独とむきあう、自分とむきあう