高田郁文化財団

この一冊この一冊

髙田郁をはじめ書店員さんなど本に関わる皆さんが選ぶ「一冊」をリレー形式で紹介いたします

 本屋なのだが恥ずかしながら読書家ではない。高校2年生の時に付き合っていた彼女から『月に何冊くらい本を読むの?』と唐突に聞かれ、『月に!? 年に1冊読むかどうかやわ』と答えて呆れられたことがあるほど、本を読んでこなかった。大学入学後、父が勤めていた小さな取次を辞めて百貨店内で本屋をやることになった。 …続きを読む

 「この一冊」の記念すべき50回目に声かけいただいた時、ちょうどこの本を読み返した直後だった。最初に読んだのは中学生の時・・・。  僕は幼いころから病弱で小学校は休みがち。なかなか友達ができず、いつも一人で本を読んでいた。そんな自分を変えたくて中学受験をして中高一貫校に入学したが、やっぱりなかなか皆 …続きを読む

小さな頃から書店の4代目として育った。昔ながらの生業本屋で、店舗の裏に自宅があるタイプの書店だ。自宅の玄関はなく、店内を通り学校へ行き店内を通り帰宅する。休日はシャッターを少し上げて滑り出すように外出し、夜遅くに帰ると周りに気を使いながら重いシャッターをソロリと動かし帰宅。そんな暮らしだったので否が …続きを読む

私の母は86歳。今でも電車を乗り継ぎ1時間以上かけて、職場である本屋に通っている。父と母が50年前に作った本屋。父が他界したあと母が引き継ぎ、そして昨年私が引き継いだ。妹も一緒に働いており、スタッフにも恵まれなんとか営業を続けている。母には本来ならば好きな時間に起きて、好きなことをしてゆっくり過ごし …続きを読む

 小学生のころ、ずっと自分のことをどこか変わっていると思っていた。靴ひもは何度やってもうまく結べないし、忘れ物は多いし、周りの多くの子が簡単にできる(ように見えた)ことが自分にはできない。母親は先生との面談の際に「登校後、ランドセルを背負ったまま歩き回っています。学校に着いたらまずランドセルを下ろす …続きを読む

「今日も行っていいけ?」「俺、今日バイトやから7時まで帰らんよ」「分かった、ほななんか食いもん買って行くわ」いつものように淡路で降りてばあちゃんちで時間を潰してから、天六へ行く。天六の大熊くんは岡山から出て来て、1年の時から共に同じ時間を過ごすことが多くなったグループの一人で、同級生だけでつくった草 …続きを読む

 幼いころの記憶は、3歳9ヶ月からしかない。がんで亡くなった生みの母の葬儀の風景が、最も古い。父が教官をしていた消防学校の生徒たちが、制服姿でずらりと並び、梅雨のどしゃぶりに傘もささず、出棺を敬礼で見送ったさまがモノクロームで脳裏に焼き付いている。ただし、この記憶は残っている写真をもとに再構成され、 …続きを読む

 「この1冊」の掲載第44回目を4月に更新、奇しくも4が3つという麻雀の役みたいな数字が並んだ。麻雀が大好きな作家を思い出した。  私が紹介する作品は「臆病者」(著者・浜田文人)。 何度か担当書店で仕掛けたが、当時のやり方が上手くなかったためか、あまり売れたという印象はない。いまも埋もれ続けたままだ …続きを読む

 45年勤務した本屋を退職して3年が過ぎた。もう一生をかけても読み切れないほどの本が書棚にはある。無造作に並べられた本を眺めては時には暇に任せて色々と整理してみる。著者別や内容別や判型を揃えたりと、思いついたように整理を始めるのは本屋勤めが長かったサガかも知れない。2024年暮れも押し迫ったある日、 …続きを読む

“1冊の本と出合うことで、自分の中で何がどう変わったか、どのような影響を受けたかを紹介する”というのが「この1冊」の主旨だそうだ。父親の職業柄、幼いころから常に本が身近にあったのだから、いくらでも書けるだろうと思ったが、これがなかなか難しい。「この1冊」に影響を受けたというよりは、川の流れが徐々に岸 …続きを読む

思い返せば本に関わる時間をずっと過ごしていました。家の近くにある本屋さんによく訪れて、とにかく店をぐるぐるまわって過ごしていたように思います。また、小学校は図書委員や新聞委員。中学生だったか、高校生でも図書委員。とにかく文字に関わり続け、そして現在は書店員として働いています。 どうして小さいときから …続きを読む

 1冊の本で人生は変わる。そんな本との偶然の出会いがあると私は信じている。  本を読まない子どもだった。読書感想文は、TSUTAYAで映画をレンタルしてなんとか書いた。大学に入学しても変わらず、猫の額ほどのキャンパスでサークル活動という名の遊びに全力だった。  そんな私が本を読むようになったのは、m …続きを読む