高田郁文化財団

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さよならのあとで

武庫川女子大学 職員 市岡 陽子

さよならのあとで

 6歳の時、伯父の葬儀に参列した。人は死んだらこうなるのかと幼心に強烈に刻み込まれた。「お父さんやお母さんやおばあちゃんにいつか来るその日」を想像し、布団の中で泣いていた。父母や祖父母を思うというより、大切な人を失うことにおびえる自己中心的な感情だったのかもしれない。

 22歳の時、お世話になった大学の先生が急逝した。先生や友人と過ごした時間がわたしの青春だった。受け止めきれず、心身のバランスが崩れそうだった。悲しみをともにできる友人は近くにいたが、実際に乗り越えるのは自分自身でしかないと身に染みた。先生の笑顔ばかりを思い出すが、卒業論文の話になった時、「いっちゃん、ちゃんとしたものを書かなあかんで」と真剣に諭された。「後に残る文章はちゃんと書く」、一番心に残っている先生の教えである。

 卒業後、書店に就職した。たくさんの本と出合えることが書店員になった一番の収穫で、『さよならのあとで』もそんな一冊だ。出版元の夏葉社は書店員仲間に「一人で出版社を興して、頑張っている人がいる」と教えてもらった。詩は文字数が少ない分、観念的で難しいと思っていたが、そんな苦手意識を覆す、シンプルで素直なことば。装丁も紙の本ならではのこだわりが感じられる。でも、何より驚いたのは、発行人のあとがきだった。

 「私は、小学校に入る前から、そういう人たち(注:お父さんや、お母さんや、友だちや、おじいちゃんや、おばあちゃんや、好きな女の子)が死んでしまうことを想像しては、布団の中でいつまでも泣いているような子供でした」

 幼い頃、わたしと同じ気持ちだった人がいる。その人は本書を世に出すために、出版社を始めたそうだ。6歳や22歳のわたしは、悲しみをやり過ごすだけだったけれど、自らの本当の気持ちを仕事に結びつけている人がいる。わたしは本当の気持ちを仕事に込めているだろうか。そんなことを考えさせてくれる本に出合えただけでも、書店員になった意味があったと思える体験だった。

 日常は続いていく。3年前、祖母が亡くなった。101歳、大往生とされる年でもやっぱり悲しくて、移動中の駅で一人泣いた。6歳のわたしが最も恐れていたことだったが、祖母は本当にしっかりと最後まで生ききり、生前「死んでも陽子の肩にいて見守っている」と約束してくれた。それは『さよならのあとで』の冒頭にある、

 「死はなんでもないものです。私はただとなりの部屋にそっと移っただけ」

に重なることばだった。祖母はとなりの部屋にいて、時にわたしの肩に乗っている。わたしは心からそれを信じ、祖母の口ぐせだった「あんじょうしなや」の約束を守ろうと思っている。

 同じころ、母校で働くようになった。先生は「いっちゃん、出戻ってきたんか」と笑ってくれているだろうか。書店員時代に本の紹介を書いていたことが今の仕事に少し役立っている。先生の教え通りに、「文章はちゃんと書く」ことを守りたいと思う。

 どんな人も悲しみから逃れることはできない。わたしもこの先、逃れられないさよならを経験するだろう。楽しい時も不安な時も、人生はつながっている。となりの部屋から守ってくれる人も、日常を生きるわたしたちも確かにつながっている。悲しみを和らげる想像力を忘れないでいたいと思う。

 『さよならのあとで』は、すぐ手にとることができるように、これからも本棚の一番良い場所に置いておきたい。

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