高田郁文化財団

この一冊この一冊

わたしはこうしてイタリアの沼にはまった

元食品会社社員

料理の四面体

 サラリーマン生活の一時期、わたしは食文化活動を行う部署に所属し食文化誌の企画編集をしていた。そのときは「本に関わるひとたち」であった。しかしわたしは読書好きではない。寄稿するなんてとてもとても・・・・と思ったところで1冊の本が浮かんだ。玉村豊男氏の『料理の四面体』である。

 料理の四面体とは、料理の形成要素を火、空気、水、油の4つに分解し、底辺に空気(介在すれば焼き物)、水(同、煮物)、油(同、揚げ物/炒め物)の三角形を置いて頂点の火とのかかわり方で料理を捉えようという原理である。ところ変われば風土や文化が異なり食材や調味料が異なっても、料理の方法自体にそう変わりはなく、どの料理もこの四面体内に収まる。

 よく考えるものだなと感心はしたが、引き込まれたのはそこではなく、原理を導くために取り上げられた料理のかずかずである。内容だけでなく色や香り、その場の空気、気分までもが軽妙な筆致で伝わってきた。

 多忙な日々のなか、最初に登場した「アルジェリア式羊肉シチュー」が頭から離れず、夏休みに羊を食べに中東に行こうとにわかに決めた。玉村さんのように、半砂漠のオアシスで地元の猛者とベコベコの鍋を囲むといったシチュエーションは到底無理だが、中東なら味わったことのない羊のシチューが食べられるだろう。ところが、出発1週間前に湾岸戦争が勃発し行先変更を余儀なくされた。迷っている時間はない。すでに気持ちは空を飛んでいたわたしは急遽行先をフィレンツェに変更した。羊肉料理に続いてとりあげられていた、狩猟民族の食のルーツを感じるフィレンツェ風ビステッカを現地で味わってみようと頭を切り替えた。

 東京でもビステッカを食べたことはあったが、現地のそれは厚みと迫力に各段の差があった。赤々と燃えた炭火で焼かれた塊の牛肉は、表面はこんがりと香ばしく中はレアだけど熱々だった。

 振り返れば、この旅がイタリアという沼にはまるきっかけとなった。玉村氏が体験された冒険的で自由な旅への憧れも背景にあったと思う。それから15年近く、北はアルプスの麓から南はシチリア島、東西の海辺からアペニン山麓とさまざまな土地を訪れた。景観、文化、暮らしすべてに魅了されたが、食の楽しみは常に旅の中心にあり、路地を歩いて厨房を除き料理人の顔つきをみてその晩のレストランを決めたりした。小さなノートに記した食事メモを見返してみると料理だけでなく出会った人々、その街の喧騒までもが蘇ってくる。そうそう、食べ損ねた羊肉シチューは、何回目かのイタリアの帰りにイスタンブルで味わった。トマトで煮込まれエキゾチックなスパイスをまとったラム、長年の想いがかなった一皿だった。

 玉村氏の著書に刺激を受けた食への情熱、好奇心はシニアになった今もわたしの生活の根幹にある。退職して2年間、楽しく飲むだけだったワインを学び新たな食の世界を広げた。今年は玉村氏のワイナリー、ヴィラデストを訪ねてみよう。

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