高田郁文化財団

この一冊この一冊

自分は変だと悩んでいた僕が「一人じゃないんだ」と救われた一冊

ライツ社 高野翔

ソフィーの世界

 小学生のころ、ずっと自分のことをどこか変わっていると思っていた。
靴ひもは何度やってもうまく結べないし、忘れ物は多いし、周りの多くの子が簡単にできる(ように見えた)ことが自分にはできない。母親は先生との面談の際に「登校後、ランドセルを背負ったまま歩き回っています。学校に着いたらまずランドセルを下ろすように言ってあげてください」と言われたそうだ。そのときの母の気持ちは聞いていない。

 そういった誰の目にもわかりやすいところに加えて、人に見えない内面でも自分が変ではないかと思うところがあり、むしろそちらの方で悩んでいた。
ある夜、「人は死んだらどこにいくのだろう」とふと考えだしてしまったことがきっかけだ。その日はとても怖くなったことを覚えている。
そこからはときどき寝る前に考えを巡らすようになった。「世界はどうしてできたのだろう」、「なんのために生きているんだろう」、「時間は本当に流れているのだろうか、もしかしたら止まっているのではないのか?」

 そしてあるとき「自分以外の人に意識はあるんだろうか、全員ロボットのようなもので自分だけが生きているのではないか」、「世界は自分ができる前から本当にあったんだろうか?」と考えだしてしまった。いま思えばこの問いについて考えだしてしまったことで、友達や先生に100%の信頼を置けなくなってしまった気がする。

 明るい性格ではあったし、友達も多かったのだが、ときどき自分以外この世界にはいないんじゃないのかと考えだしてしまう。
こんなことを考えているのは自分だけではないのか、なんでこんなことを考えてしまうのかと、心の一部がどこか凍ったような感覚で日々を過ごしていた。

 ときどき現れるそんな悩みを抱えたまま、中学生のときにある本に出会った。『ソフィーの世界』(NHK出版)という本だ。この本が自分の人生を変えた。
きっかけはその本がテレビで紹介されていたのを見たからだと思う。気になって母に近所のポピーという本屋さん(今はもうない)に連れて行ってもらい、平積みされている一冊を手に取った。女の子がまっすぐこちらを見つめている不思議な表紙。ハードカバーでとても分厚かった。

 そこから家に帰って読んでびっくりしてしまった。何百年、何千年も前から、自分と同じようなことを考えていた人がたくさんいたからだ。
「自分以外はロボットじゃないのか?」という考えは「哲学的ゾンビ」という概念そのものだったし、「世界は自分ができる前にはなかったのでは?」という疑問は「世界五分前仮説」というバートランド・ラッセルの思考実験と一緒だった。
「人間ってずっと前からおんなじことを考えていたんだ!一人じゃなかった。」と救われた。とても温かい気持ちになったことを覚えている。うまく言えないけど、ここから世界を自分の奥底から信頼するようになったと思う。

 そのあと、大学では哲学を学び大学院まで進んだ。少年のときの自分のように「一人かもしれない」と感じている人を救いたいと思い、就職は出版社に決めた。
独立して出版社を立ててからは「(推定3000歳の)ゾンビの哲学に救われた僕(底辺)は、クソッタレな世界をもう一度、生きることにした。」という本も出版した。これはあのときの気持ちそのものだ。
あの日僕の心を溶かした一冊が、いまも僕を救い続けている。

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