記憶について
西の旅(メディア経営者)

幼いころの記憶は、3歳9ヶ月からしかない。がんで亡くなった生みの母の葬儀の風景が、最も古い。父が教官をしていた消防学校の生徒たちが、制服姿でずらりと並び、梅雨のどしゃぶりに傘もささず、出棺を敬礼で見送ったさまがモノクロームで脳裏に焼き付いている。ただし、この記憶は残っている写真をもとに再構成され、定着し、上書きされたものかもしれない。そう推測するのは、写真が一枚もない(祖母が気遣って引き上げた)生母の記憶が、私には全くないからだ。
人間にとって、記憶とは何か。実は出生時のことを憶えているとか、はては前世の記憶を思い出すなどということがあり得るのか。半世紀近く前に、今は消えてしまった大学で、社会学、心理学、哲学などが気ままに学べる人間関係学科に進んだのも、そんな「記憶」への興味からかもしれない。思い出とは、本当に私自身のものなのか――幼年期の心理学などもかじって、「記憶」をテーマにした小説でも書こうかと考えていたが、思いがけず新聞記者になって文学からは遥かに遠ざかった。
この1冊は、いつかは記憶のことを書こうと思っていた私に、それを断念させた作品である。記憶と忘却をテーマに、人間の存在そのものの不確かさを浮かび上がらせている。これを読んでは、もう書けない。著者はSF作家としてデビューし、パスティーシュの名手として知られる。だが、この作品は福武書店が発行していた純文学誌「海燕」(1993年4月号)に一挙掲載された異色作だった。
記憶について、人間の内面を問うたのが「シナプスの入江」、社会との関わりで描いたのが小川洋子氏の「密やかな結晶」(94年、講談社刊)である。私には甲乙つけがたいが、発表順で前者を「この1冊」に選んだ。
それに加え、この作品は出版社に左右される「本の生い立ち」というものを痛感させる。受験生向け模試や通信添削で成長した福武書店は「海燕」で文学界に一石を投じたが、95年には社名をベネッセコーポレーションに改め、やがて出版事業を縮小。「シナプスの入江」は93年5月に単行本、95年10月にはベネッセの「福武文庫」にも加えられたが、今や書店の文庫コーナーに福武の棚はなく、作品を手に取ることも容易ではない。版元が老舗の出版社だったなら、こんなことはなかっただろうに。
さて、還暦をとうに過ぎて、改めて「記憶」について考えさせられる場面に出くわした。何十年ぶりの中学の同窓会で、全く知らない人物が親しげに近づいて来て、私に関わる(という)様々な思い出話を語りかけて来た。幼なじみのみっちゃんがいたので、「あの人だれ」と小声で尋ねたら、クラスは違うが確かに同級生だという。しかし、思い出話の輪郭はぼんやり浮かんでも、その人物は名前も容姿も全く結びつかない。逆に、エピソードを詳細に語るその様子に怖さすら感じた。
その「思い出」は確かに存在したのか。単に、私が加齢に伴って忘却しただけなのか。はたまた私の思い出の中に知らない人物が勝手に入り込んで来たのか。そんなことを考えていたら、記憶をテーマにした小説を性懲りもなく書きたくなってきた。ただし、原稿が出来上がったとしても、上梓は行く末長い出版社にお願いしたいと思っている。
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