フェルジナンドのように、母のように
の君に本を 店主 chie

大学生になった時、突然ポツンと一人になった。
学校に知り合いが一人もいない、そんな環境に身を置くのは初めての経験だった。
18歳。現在ならもう大人とみなされるような歳になって「友達ってどうやって作るんだっけ?」と、当時の私は戸惑っていたのだ。
それまでは「笑いが最優先」みたいに生きてきた私にとって、周りの大学生が楽しそうに話す話題に全く興味が持てず、いつまでたっても彼女たちとの距離は縮まらない。「一緒にいるけど一人」のような状態が続いていたのだ。
そんな環境が長く続くと、さすがに「これは私が変わるべきなのではないか?」と考え始めた。
意固地に今までの自分を通すのではなく、もっと興味や関心を別のところに向け、周りに合わせて変わっていくべきなのではないかと考えたのだ。
まさにそんな時期に出会ったのが、ヘルマン・ヘッセの「独り」という詩と、この『はなのすきなうし』という絵本だった。
『はなのすきなうし』
牛のフェルジナンドは幼い頃から花の匂いをかぐことが何より好きな牛だった。周りの牛たちはマドリードの闘牛で華々しく戦ってみたいというのが一番の望みであって、戦うことに興味のない牛などフェルジナンドくらいのものだ。
それなのにあるハプニングの末、フェルジナンドは闘牛場に連れて行かれてしまった。しかし闘牛士たちがどんなにけしかけてもフェルジナンドは闘牛場の真ん中で決して動かず、観客の女性の頭に挿された花の匂いを静かにかいでいたのだ。
正直言って驚いた。その気はなくとも、あの場に立たされたらポーズだけでも戦わざるをえないのではないか。なのにあの大勢の観客の視線をあびながらも自分の好きなことを貫けるフェルジナンドにただただ胸を打たれた。
穏やかでありつつも周りに流されない真っ直ぐなフェルジナンドの強さに触れ、私は迷いから解放された。
人それぞれ好きなものも興味も違って当たり前。自分を変えてまで無理に周りにあわせて生きていかなくてもいい。
それからの私は自分のスペースは守りつつ周りの友人とも付き合っていくことができるようになったのだった。
そしてそれから何年も後のこと。私に息子ができた頃には今度は自然とフェルジナンドの母親の目線でこの絵本を読むことになる。
母親は誰とも遊ばずいつも一人ぼっちで花の匂いをかいでいる息子を心配していたが、ある時それをフェルジナンドに聞くと、彼は「こうしている方が好きなんです」と答えた。そしてそれを聞いてからは何も言わず好きなようにさせてやったフェルジナンドの母。
私はこんな母親になれるだろうか。好きなことをして欲しいとはもちろん思う。だが息子が望んでいるとはいえいつも一人でいるのを見た時に果たしてそれを静かに見守る強さが私にはあるのだろうか。
でも、きっとこうあるべきなのだと思った。
私自身がフェルジナンドの生き方を知り自分を取り戻したように、今度は息子がフェルジナンドのように生きるのを見守るのが私の役目なのだと理解したのだ。
私にとってこの絵本は子としても母としても進むべき道を示してくれた大切な絵本である。
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