高田郁文化財団

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そこに生きる人々を、そして風土を伝える

青森放送 夏目浩光

ライカでグッドバイ

昭和の時代、私が住んでいた町にも、自転車で行ける範囲に、多くの書店があった。部活動で活躍するクラスメイトを尻目に学校から帰る。カギっ子と呼ばれた私の居場所はあちこちの書店だった。お気に入りは、町で一番大きな精文館書店。音楽や映画、自動車やアニメ、思春期の男の子が興味を持つような雑誌まで、自分の知らない世界が限りなく広がっていた。

高校生になって、カメラ専門誌を読み、ライカという高級カメラの存在を知った。ライカという言葉に不思議な魅力を感じるようになった。その結果、ライカの本だと勘違いして買ったのが「ライカでグッドバイ」。今まで読むことのなかったノンフィクションに出会った。

1966年、ベトナム戦争を撮影した「安全への逃避」を含む報道写真集でピューリッツアー賞を受賞。4年後の1970年、戦場に散った報道写真家・沢田教一。ライカを持ち、命がけで戦場を取材し、世界に発信する沢田の姿は、憧れの人物として私の心に刻まれた。将来の目標などなかった高校生が、戦場カメラマン、海外特派員、ジャーナリストという言葉に惹かれ、マスメディアで働きたいと意識した。

大学を卒業後、就職先として通信社や放送局を受験。都会の放送局はすべて落ち、最終的に受かったのは、青森の放送局。あこがれた戦場カメラマン、海外特派員とはずいぶん違うが、地方局のアナウンサーとして仕事をすることになった。

青森に住んで、半年ほどたったとき、沢田の妻、サタさんが弘前市に住んで自宅でレストランを開いていることを知った。青森が沢田教一の故郷であったことなどすっかり忘れていた。すぐにサタさんを訪ねた。

家のドアを開けたとき、自分が何処にいるのか分からなくなった。馬が戦車を引き、槍や弓を持った戦士。アンコールワットの壁画だ。サタさんにとって、カンボジアは夫が亡くなった国であるのと同時に、二人で旅行した思い出の場所。その時に土産物として購入した壁画をうつし取った型紙が玄関の壁一面に飾られていた。リビングには、沢田教一の使用したライカが置かれている。

サタさんから聞く沢田教一は、「そこに生きる人々を、そして風土を撮りたい」というカメラマンだった。私の憧れた戦場カメラマンのイメージとは少し違う。「いまでも生きていてほしかった」というサタさんの想いが強く感じられた。

現在、サタさんは98歳。今年、沢田がベトナムに旅立つ半年前に撮影した写真がはじめて新聞に掲載された。下北半島の風景と、その地に住み、力強く生きる人々の姿が写し出されている。「そこに生きる人々を、そして風土を撮りたい」という言葉がそのまま当てはまる写真だ。 私は青森に住んで34年になった。報道写真家・沢田教一の生涯と同じ年月を過ごしたことになる。青森に生きる人々を、そして青森の風土をラジオというメディアで伝えられているだろうか。沢田教一の撮影した青森の写真を眺めながら、そう、自問自答した。

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