愛しい友へ
髙田 郁
「そんなに怒らないでよ」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、紛れもなく友の声だった。バオバブ、という愛称の懐かしい友は、四年前に病死しているはずだった。
「事故でずっと意識不明になっててさ、目が覚めたら、死んだことにされてたのよ。もうびっくりしちゃってさぁ」
記憶にある通りのおっとりとした口調で言って、バオバブはおおらかに笑う。
そんなはずはない、これは夢だ、とわかっていながら、私は、
「もう、あんたはいつも、私に心配ばっかりかけて」
と、泣き笑いで応えた。そのあと、どんなやり取りをしたのかは覚えていない。ともかく楽しくて、幸せで、声を立てて笑った。明け方、はっと目覚め、やはり夢だと知る。四年経って初めて、バオバブは夢の中で会いに来てくれたのだ、と。
大学で知り合った私たちは、実によく本の話をした。同じ本を読みながらも、まったく異なる感想を抱いたり、感銘を受ける箇所がまるで違っていたりで、話していて飽きることがなかった。中でも、忘れられないのがケストナーの「飛ぶ教室」という児童書が話題になった時のこと。大雑把に言えば、寄宿舎生活を送る少年たちの成長物語なのだが、友情について深く考えることの出来る名作で、バオバブも私も子どもの頃に夢中で読んだ経験があった。
「クリスマスに帰省するには旅費が八マルクかかるのに、マルチンのお母さんは五マルク分の切手しか工面できなかったんだよね。マルチンが封筒をひっくり返して、やっぱりない、とわかった時……マルチンの悲しみがひしひしと伝わって、もう辛くてたまらなかった。あの場面は、今でも忘れられない」
涙声で語るバオバブに、「えっ? そこ?」と思わず声を上げた私だった。
「ベック先生が禁煙先生と再会する場面があったでしょう? 『ああ、きみ、ぼくはやっときみを取り戻したぞ』っていう、あそこ。年代を問わず、感じ入る名場面だと思うけど」
私たちは「信じがたい」という眼差しで互いを見、そして笑いが止まらなくなった。感じ方、受け止め方は違っても、相手のことを心から好ましい、と思った瞬間だった。
大学の法学部で出会ったのに、バオバブは医学部に入り直して、苦労を重ねて医師になった。勤務医を続けたのち、望まれて医療施設の少ない土地でクリニックを開いた。しかし、無理がたたったのか三年足らずで病に倒れ、慌ただしく旅立ってしまった。通夜の席で、年老いた患者さんがクリニックの診察券を取り出し、「先生、起きて。お願いだから起きて」と、亡骸にすがっていた姿を忘れたことはない。
今春、大事に想うひとが救急搬送されて、集中治療室に入った。
気をもむ中で、ふと、バオバブを思った。会いたい、と心から思った。四年が過ぎても夢枕に立ちさえしない薄情者め、と。その矢先に冒頭の夢を見たのだ。私の心細さが見せた夢か。否、私を励ますために、現れてくれたものとしておこう。
ああ、きみ。ぼくはやっと君を取り戻したぞ──ベック先生ではないが、そう言ってバオバブを抱きしめれば良かった。