高田郁文化財団

この一冊この一冊

心の糧

(株)トーハン 元職員 相馬ゆり江

アンジュール

私の本好きの原点は、亡父による独特な毎夜の「読み聞かせ」にあると言っても過言ではない。何しろ文庫本を子供が理解出来るように読み下すものだったのだ。このような親が他にもいらしたらお会いしてみたい。料理上手だった亡母も、また本好きであったため、本を読む事は我家では日常生活として寝食同様あたりまえの事だった。小学生時代は、海外名作物語に加えてルパンやホームズなどに夢中になり、中学からは父の影響でクリスティやポーやクィーンなどテッパン海外ミステリーの他に山本、池波、藤沢などこれまたテッパン時代小説を読み耽り、年齢的に芥川、太宰、高村光太郎なども楽しんだ。みんな娯楽・趣味本じゃないかと言われればそうなのだが、とにかく手を伸ばせば本があるという幸せな環境で育ったため、自然と「本に囲まれた仕事に就きたい」と思うようになる。そのうち出版取次という業種を知り「多くの出版社から途方もない数の新刊が毎日書店に並んでるし、あわよくば発売前の本が好きなだけ読めるんじゃないか?ウヘへへ」という邪な考えを押し隠し、東京出版販売株式会社(現トーハン)に潜り込む事に成功。業界屈指の名物人と呼ばれる方々と知り合える事が出来て、ありがたい教示を多く得、昨年無事に定年まで楽しく仕事をさせて頂けた、感謝。
さてさて、本といえば活字がページを埋め、読み進めるものだと子供の頃から刷り込まれていたため絵本というものに触れた記憶が乏しい。いや桃太郎とかカチカチ山とか浦島太郎とかガチガチの絵本には触れたが、所謂ミリオンセラーと呼ばれる絵本は読んだ事がなかったのである。(毎年「ミリオンぶっく」という小冊子をトーハンで発行しているので興味のある方は書店に問い合わせを!)

ある日、一軒の書店で棚からはみ出ていた横長の絵本に気がついた。手に取ってページを捲ると文字が一つも無い鉛筆デッサン黒一色の物語が始まる。じっくりと見ていくと途中で何だか絵がぼやけてきた。涙だ。いい大人がたまたま手にした一冊の絵本に書店内で涙を流すとは、我ながら信じられなかった。こっそりと涙を拭い、その絵本をレジに持っていく。自身初の絵本購入の瞬間だった。
心を打つデッサンが読み手の想像力と経験値から幾通りもの物語を提供してくれる。年齢を重ねるたびに読み返えすたびにページから受ける感じ方が深くなっていく。あとにも先にもこんな絵本には出逢っていない。ぜひ多くの方に手にしていただきたい一冊である。

車の窓から投げ捨てられた一匹の大型犬。飼い主の車を追いかけて必死に走るが車は停まること無く走り去る。それでも犬は一心不乱に駈け追い続ける…。やがて道を嗅ぎ歩き、空に向けて吠え、砂浜を行く。壮大な自然の中に残る犬の足跡と小さく描かれた姿に犬の抱く感情が痛いくらいに伝わる。歩き着いた町中で人間に追い払われ途方にくれて座る後ろ姿とひとりの少年と出逢うラスト6ページが読み手の心に突き刺さる。

このすばらしい絵本が何歳になっても、心の糧となっている幸せに感謝。

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