小説の力
夏葉社 島田潤一郎
昭和40年代に刊行された図書館の本を読んでいたら、当時の市立図書館の分類が掲載されていた。
「1,歴史に学ぶ 2,社会の動き 3,ビジネス 4,婦人・家庭 5,からだと健康 6,心の問題 7,教養を高める 8,レジャーを楽しむ E,随筆・記録 F,小説」
この図書館の分類が例として挙げられているのは、読者に親しみやすい分類法の一例としてであり、当時のすべての図書館がこの仕分けによって本を管理していたわけではない。
でもぼくはこの創意的な10のジャンルを見て、驚いてしまった。
並んでいる順番によって発見させられたという感が強いのだが、最後の「F,小説」というジャンルだけが他のジャンルと異質なのである。
小説以外のジャンルは、どちらかというと実用的である。それらは何かしらの事実に基づいて書かれたものであり、書き手は過去の出来事や、経験、あるいは科学的な事実をとおして読者に知恵を伝える。
もちろん小説もまた、過去にあった出来事や、個人的な経験を下敷きに描かれている。科学的な事実だって、小説とは無関係ではない。
けれど小説は、まず書き手の空想によって描かれる。空想でないものは、一般的に小説とは呼ばれない。
なんという違いだろう。
ぼくは若い頃から小説が好きで、いまもいちばん好きなジャンルは小説、あるいは文学である。
これらの文章に慣れ親しんでいると、他のジャンルの文章を物足りなく感じる。
小説、つまりフィクションを形づくる文章は、読者にその世界がほんとうであると信じてもらうために綴られる。
そこに蓄積された技術があり、執念のようなものがある。
それは事実を正確に伝える文章とはだいぶ違う。
そもそも、出発点が違うのである。
事実を伝える文章と、書き手の頭のなかの景色を創造するための文章。
たとえ一瞬でも、読者がその小説世界を嘘っぽいと感じたら、すべての努力が台無しになってしまう。
だからすぐれた小説というのは、最初の一文字から最後の一文字まで緊張感がある。
あるいは、「美しさ」と呼びたくなるようなものがある。
年始に読んだ姫野カオルコさんの『彼女は頭が悪いから』は小説だ。実際にあった事件を下敷きにしているが、ノンフィクションではない。
作家は被害者の心のうちを想像し、加害者の心のうちを想像し、たくさんの場所を想像する。
その試みが実を結んだとき、フィクションはノンフィクションを凌駕する。
力のある小説だ。