高田郁文化財団

この一冊この一冊

わたしだけの本

ジュンク堂書店 キヨタン

とかげ

私が初めて一人暮らしをしたのは、大学生の時。県外の大学へ進学を決めたため、一人暮らしが始まった。

始めての一人暮らしは、忙しいものだった。サークルに、勉強に、友達付き合いに、バイト。ぐるぐると時間を追いかけながら、知らない世界を駆け回った。時間はあっという間に過ぎ、気付けば夏休みになっていた。

夏休み。バイトもサークルもない時間。外の強い日差しとは裏腹に、日陰になった部屋でひとり、時間を持て余した。遠くからどこかの家族の楽しそうな声がするのを聞きながら、持て余した時間を埋めるため本屋へ向かった。そこで出会ったのが、この本だった。

「とかげ」は、表題作である「とかげ」の他に6つの短編から成っている短編集だ。ひとつずつ読み進め、私は、「血と水」という短編に出会ったのだ。

「血と水」は、端的に言えば、自立する女性の物語だ。特殊な環境で生きてきた女性が、その場所から抜け出し、東京で新しく生活を始める。他でもない自身のために。育った場所が時折抗いがたい誘惑として彼女へと手を伸ばすが、新しい出会いとともに、彼女は東京で生きていく。そんな話だ。

故郷が持つ引力に抗う彼女の姿に、どきりとした。一人で眠る心細さや、一人で食べる食事の寂しさが脳裏をよぎる。初めての一人暮らしの忙しさの影に隠れていた故郷の姿が、ひょっこり顔を出したようだった。

読み進めた先で、ふいにこちらに語り掛けるような一文が出てきた。

あなたに、と。

たったひとこと、それは読者へと伸ばされた、物語からの呼びかけだった。

その文を読んだとき、私はびゃっと泣いてしまった。とてもとてもびっくりした。涙が出たのを呆然と受け止めながら、私は、ただ、その文に泣いた。

そこで初めて、私は、私の寂しさに気付いたのだ。

起きても一人、食べても一人、寝ても一人、自分の声だけが反響する部屋で、私は知らずに寂しさを募らせていたのだろう。

だから突然伸ばされた物語からの手に驚いて、びっくりして、涙がびゃっと出てしまったのだ。今となれば少し恥ずかしいのだが、まるで物語に、一人じゃないよと言ってもらったような気持ちになって、暫く本を抱いたまま、私はひゃんひゃんと泣いていた。

思い出すとちょっと恥ずかしい、私の、青々しくて可愛らしい思い出だ。

人生で、これは自分の本だと言える出会いをすることが何度かある。

この本は、私の本だと。

私のための本なのだと、その出会いが人生の宝物になることがある。

これは、家族に愛されてぬくぬく育った私が、初めて知った一人の寂しさの中で出会った、私だけの本だ。

思い返すと少し気恥ずかしくて、けれどとても大切な、懐かしいあの部屋の匂いがする、私だけの1冊だ。

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